その日の教室はいつにも増してにぎやかだった。
「じゃあ、球技大会の種目決めやるよー」
 学級委員の一声に色めき立つ教室の中で、私は両手を膝の上で握りしめてじっとしていた。
「まずはドッジボール、やりたい人ー」
 またこの時期がやってきてしまった。クラス対抗の球技大会。
 球技自体は嫌じゃない。でも、球技大会は嫌だった。運動神経のない私がチームにいるとみんなに迷惑がかかる。私にとって球技大会とは楽しい行事なんかじゃなく、できるだけ周りの迷惑にならないように縮こまっている時間だった。
 そんな私の憂鬱とは無関係に、参加する人たちがどんどん決まっていく。
「次はソフトボール。やりたい人、手挙げてー」
「はい」
 聞き慣れた声がした。
「オッケー、星野くん、ソフトボールね」
「はい、がんばります」
 顔を上げて、星野くんの方を見る。落ち着いた表情で堂々としている。
 かっこいいなぁ。そう思った。
 星野くんは、私のクラスメイトだ。超がつくほどの正直者で、いつでも自分が本当に思っていることをハッキリと言う。決めたことはちゃんと守るし、律儀だし、礼儀正しい。でも堅苦しいわけじゃなくて、茶目っ気もあって親しみやすいところもある。
 私は星野くんに恋をしている。1年生のときに私は星野くんのことを知って好きになった。そして告白してフラれてしまった。星野くんには他に好きな人がいた。
 星野くんが横を向いた。
「根岸さん、見ててくださいね! 俺がんばりますから!」
「今ここで言うなよ!」
 笑いと拍手が起こった。
 星野くんに声をかけられた根岸さんが返事をする。そんな二人のやり取りで教室が沸く。このクラスでは見慣れた光景だった。
 クラスメイトの根岸さんは、星野くんとお付き合いをしている。星野くんが好きな人というのは根岸さんだ。私は星野くんがどうしようもなく好きだったけど、星野くんも根岸さんのことがどうしようもなく好きだったので私はフラれてしまった。
 その一件をきっかけに二人とは知り合いになった。二人からしたら私は迷惑な存在でしかないはずなのに、星野くんも根岸さんも私に好意的に接してくれた。だから、私は二人の仲をファンとして見守ることにした。
 星野くんも根岸さんもとても真っ直ぐで、器が大きくて、大人だなぁと思う。星野くんへの恋が叶わないことを思うと胸がちくりと痛むが、それも当然だと思えるくらい二人はお似合いのカップルだった。
 二人のやり取りも落ち着いた頃合いで、また種目決めが再開された。大きな揉め事もなく順調に出場者が決まっていく。最低でもどれか一種目は出ないといけないので、私もどこかで手を挙げないといけない。私が狙っていたのはバレーボールだった。別にバレーが特別得意というわけじゃなかったけど、ドッジボールやバスケ、サッカーよりはマシだと思った。
「じゃあ、次、卓球決めるよ。やりたい人ー」
 卓球は目立ってしまうからできない。大勢の人に見られながら試合をするなんて、考えただけでお腹が痛くなってくる。卓球の次はバレーボールの出場者を決める番だった。私は手を挙げるために心の準備を始めた。
「はーい」
 また聞き慣れた声がした。
「オッケー、根岸さんね」
 いっかいやってみたいと思ってたんだー、という根岸さんの明るい声が聞こえてくる。根岸さんは運動神経がいい。卓球の試合でスマッシュを決める根岸さんはとてもかっこいいだろうなと思った。
「卓球、女子が一人足りないなぁ。誰かいないー?」
 学級委員の隅田さんが困り顔をしている。ダブルスが一人足りないらしい。
「俺じゃダメですか」
 星野くんがまた手を挙げた。
「いいわけないだろ!」
 根岸さんがツッコミを入れた。
「だって、根岸さんとペアを組みたいじゃないですか」
 教室がまた笑い声に包まれる。
「ごめんねぇ、星野くん。足りてないの女子なんだ」
 隅田さんも笑っていた。
「わかりました。根岸さんとダブルスを組むのは個人的にやることにします」
「個人的にって何?」
 卓球のダブルスに根岸さんが出場する、そしてそのペアがまだ決まっていない状態みたいだった。突発的にある考えがよぎった。
 根岸さんとダブルスを組む。
 いやでも、そんなことをしていいんだろうか。私は目を閉じて考えてみた。
 私は根岸さんのことが好きだ。根岸さんはとても魅力的な人で、こんな私にも優しく明るく接してくれる。私は星野くんが好きだけど、根岸さんのことも好きだ。根岸さんと今よりも仲良くなれたらどんなにいいだろうと思っている。根岸さんとペアを組んだらそうなれるかもしれない。少し期待する気持ちがある。でもそんなことをしていいんだろうかという気持ちもある。星野くんとお付き合いをしている根岸さんにとって、星野くんのことが好きな私は近づいてはいけない存在なんじゃないかと思う。根岸さんにとっては迷惑なことなんじゃないかと不安になる。
「他いないー?」
 隅田さんが教室を見渡す。
「時間かかるようだったら、とばして次の競技決めるよー」
 もう終わってしまう。決めるなら今しかない。心臓の鼓動が全身に響きわたる。頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。進みたい気持ちと怯える心の板挟みだった。
 今だ。今だ。今――。
「おー、涼子ちゃん!」
 頭が真っ白になり、気がつくと手が挙がっていた。空気に触れた手汗のひんやりとした感触が手のひらに広がる。
「根岸さんのペアは杉本さんね」
 板書担当の片桐くんが黒板に私の名前を書いた。「根岸」という文字の後ろに少しスペースを空けて書かれた「杉本」の文字を私は現実感のないふわふわとした気持ちで見つめていた。

「杉本さーん」
 休み時間、根岸さんが私の席にやってきた。
「卓球、二人でがんばろーね!」
 ガッツポーズを作っている根岸さんの顔を、私はちゃんと見ることができなかった。
「は、はい、よろしくおねがいします…」
「杉本さん」
 根岸さんの後ろから星野くんもやってきていた。
「本当は俺が根岸さんとペアになりたかったですが、仕方ありません。俺の分までがんばってくださいね」
「は、はいっ」
 余計なプレッシャーかけちゃ駄目だよ!と根岸さんが星野くんを小突いた。その様子を見ているうち、私は私が根岸さんのペアになったという事実を徐々に実感し始めた。
 私と根岸さんがペア。二人で一緒に球技大会に出る。
 手が震える。怖いからなのか、不安だからなのか、嬉しいからなのか、自分でもよくわからなかった。でも、私は自分で思っているよりもとんでもないことをしてしまったのかもしれないと思った。耳鳴りがしていた。

「まさか、涼ちんが卓球を選ぶとはなー」
 ケースケはパンをかじりながら笑っていた。ケースケは私のクラスメイトであり、幼馴染でもある。
「自分でもびっくりしているわよ」
「しかも、根岸とペアなんだよな、おもしれー」
 根岸という単語に身体が反応する。悟られないようにお茶を飲んで誤魔化す。
「みんなで遊んだことは何回もあるけど、根岸と涼ちんが二人でなんかするのは初めてだよな」
「そ、そうね」
 自分で招いた出来事ではあったけども、私はそのことに戦慄していた。
「根岸と仲良くなれたらいいよな」
「そ、そうね」
 ケースケの間延びした話し方は普段と何も変わりないのに、なんだか追い詰められているような焦りを感じた。話題を変えないといけないと思った。
「ケ、ケースケは、ソフトボールだったわよね」
「おう、星野と一緒だな」
 星野という単語に身体が反応する。また、お茶を飲んだ。少しむせてしまった。
「俺が活躍したらさ、デートしてくれねーか?」
「馬鹿じゃないの」
 ケースケは私のことが好きらしい。もうこんなことを何回言われたか分からない。でも、私はケースケのことをそういう目では見られない。本人にもそう伝えたけど、ケースケは変わらずこの調子だし、私の方も変わらずケースケに対して幼馴染として接している。なんだか不思議な関係だなと思う。
「まー、仕方ねーよなー」
 何も面白くないはずなのにケースケは笑った。

 週末に根岸さんと卓球の特訓をすることになった。
 場所は学校から少し行ったところにあるボウリング場、その中にある卓球コーナーに私と根岸さんはいた。付き添いで星野くんとケースケも来ている。ボウリングは小さい頃やっていて、ここにはよく来ていたけど、卓球をやるのは初めてだった。慣れた場所で慣れないことをするのは変な気分だった。
 受付で貸してもらったラケットを手にしてまずは軽く振ってみる。次にピンポン球を少し上に投げて、振ったラケットを当ててみる。こんっという音とともに球は飛んでいき、ネットに引っかかった。
「うーん、難しいねー」
 台の挟んで向かい側にいる根岸さんも同じことをやっている。よっ、っという掛け声で根岸さんが飛ばした球はネットを越え、台も通り過ぎて床に落ちた。
「涼ちん、もうちょっと思い切って振るといいんじゃねーか」
「根岸さん、力が強すぎますよ」
 台の脇から私たちへアドバイスが掛けられる。
「根岸さんの粗野なところが悪く働いてしまってますよ」
「うるさいなっ!」
 根岸さんが星野くんにピンポン球を投げつけた。ものすごい勢いで投げられた球は空中で一気に減速して、星野くんの服に当たって弱々しく落ちた。私の足元に転がってきたそれを拾い上げて触ってみる。卵のようだったけど、卵よりも軽かった。軽くて薄くて弱々しい。ボウリングの球とは全く違う、吹いたら簡単に飛んでいってしまいそうな白い球に、私も根岸さんも苦戦していた。
 二人から助言をもらいながら球を投げ上げてラケットに当てることを繰り返していくうち、段々と感覚を掴んできた私たちは、少しずつ台の向こう側に球を届けることができるようになり、二人でラリーをしてみようということになった。
「あっ! すみません…」
「あー! ごめんっ!」
 私の球はネット手前に落ちることが多く、その度に根岸さんが返球のために前につんのめる。崩れた体勢から返球された根岸さんのボールは、あらぬ方向へと飛んでいってしまう。明らかに打ちにくい球ばかり根岸さんに送ってしまっている。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「杉本さんはもう少し思い切って振ってみてもいいんじゃないでしょうか」
 星野くんから私に声がかけられた。緊張でラケットを握る手に力が入る。
「は、はいっ」
 そして、次のラリー。私はラケットを全く動かすことができず、球をそのまま見送ってしまった。ピンポン球が床に落ちて、カツンッという音が響いた。
「ごっ、ごめんなさい!」
 思わず頭を下げる。せっかく星野くんがアドバイスしてくれたのに逆のことをしてしまった。根岸さんにも迷惑をかけてしまっている。心苦しさと恥ずかしさで私はパニック状態だった。
「杉本さん」
 根岸さんの声がした。頭を上げると根岸さんがいつの間にかすぐ隣に来ていた。
「大丈夫だよ!大丈夫! 私、気にしてないし、星野くんも気にしてないよ」
 根岸さんは私の目を見て話してくれている。
「そうですよ。根岸さんも同じくらい下手なんですから、気に病む必要はないですよ」
「言い方がムカつく…けど、まぁそういうことだからさ!」
 根岸さんは一瞬星野くんの方を振り返ったあと、また私の目を見て優しく言った。
「深呼吸しようよ」
 ラケットを台に置き、できるだけたくさんの空気を吸い込む、そしてゆっくり吐き出す。隣で根岸さんも同じようにしている。もしかしたら根岸さんも緊張してたのかもしれない。そう思った。吸って吐いてを繰り返してくうちに乱れた呼吸がおさまってくる。視界が心なしか鮮明になったような気もした。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
「よかった!」
 それからはラリーが安定して続くようになった。私の打球は根岸さんのところにちゃんと届くようになり、根岸さんの打球は私のところにちゃんと届くようになってきた。まだまだミスは多かったけど、初めてにしてはよくできたほうなんじゃないかと思った。根岸さんも星野くんもケースケも、同じことを言っていた。
「いいかんじだよ!」
「その調子です」
「涼ちーん、がんばれー」
 根岸さんが打って、私が返す。私が打って、根岸さんが返す。そうやって時間が過ぎていった。
「今日は楽しかった! またやろうね」
 特訓を終えて星野くんと一緒に帰っていく根岸さんの背中を眺めながら、根岸さんは太陽みたいな人だと思った。星野くんが夜空に輝く星のような人だとしたら、根岸さんは大きくて明るくて暖かい太陽みたいな人だ。そう思っている自分の顔が少し熱くなっていることに気づいたのは、少し遅れてのことだった。

 それからは毎週末、根岸さんと卓球の特訓をした。特訓に付き合ってくれたのは星野くんやケースケ、あとは星野くんたちと友達の塚原くんや陽子さんもお手伝いをしてくれた。
 とりあえず球を打って返すことができるようになった私たちは、次にダブルスに挑戦してみることになった。卓球のダブルスは二人が交互に返球するルールらしい。ただ、初心者にとってそれは難しいということで、球技大会では順番にかかわらず二人の内のどちらかが返球すればいいということになっていた。なので、どういう球のときにどちらが返球するかという役割分担を考える必要があった。
 根岸さんは身体がよく動いた。私だったら打てないような場所の球も動いて返球できていた。そして、打球に勢いがあった。一方で私は俊敏に動くことはできず、球に勢いがなかった。ただ、前後左右への球の打ち分けはある程度できた。だから、私たちは作戦として「基本的に自分の立ち位置に来た球は打つ」「私は相手の打ちづらい場所への打球で体勢を崩させる」「浮いた球が返ってきたら根岸さんが動いてスマッシュを打つ」の3つの方針を立てた。
「いい感じだね!」 
 根岸さんは嬉しそうだった。そんな根岸さんを見ることができて私も嬉しかった。大会当日も、勝って根岸さんに喜んでもらいたいと思った。
「二人とも、けっこーいい感じだよなー」
 特訓からの帰り道、ケースケは私にそう言った。
「私もいい感じだと思う。このままの調子で、根岸さんのペアとして迷惑をかけないようにしないと」
「おー」
 ケースケは少し釈然としない様子だった。
「まーでも、あんまり思い詰め過ぎんなよな」
「思い詰めてなんかないわよ。少し不安ではあるけどね」
「…そうかー。まー楽しんでな」
 応援してるぜー、とケースケはやわらかく笑った。

 週末に根岸さんと卓球の特訓をすることになった。
 場所は学校から少し行ったところにあるボウリング場、その中にある卓球コーナーに私と根岸さんはいた。付き添いで星野くんとケースケも来ている。ボウリングは小さい頃やっていて、ここにはよく来ていたけど、卓球をやるのは初めてだった。慣れた場所で慣れないことをするのは変な気分だった。
 受付で貸してもらったラケットを手にしてまずは軽く振ってみる。次にピンポン球を少し上に投げて、振ったラケットを当ててみる。こんっという音とともに球は飛んでいき、ネットに引っかかった。
「うーん、難しいねー」
 台の挟んで向かい側にいる根岸さんも同じことをやっている。よっ、っという掛け声で根岸さんが飛ばした球はネットを越え、台も通り過ぎて床に落ちた。
「涼ちん、もうちょっと思い切って振るといいんじゃねーか」
「根岸さん、力が強すぎますよ」
 台の脇から私たちへアドバイスが掛けられる。
「根岸さんの粗野なところが悪く働いてしまってますよ」
「うるさいなっ!」
 根岸さんが星野くんにピンポン球を投げつけた。ものすごい勢いで投げられた球は空中で一気に減速して、星野くんの服に当たって弱々しく落ちた。私の足元に転がってきたそれを拾い上げて触ってみる。卵のようだったけど、卵よりも軽かった。軽くて薄くて弱々しい。ボウリングの球とは全く違う、吹いたら簡単に飛んでいってしまいそうな白い球に、私も根岸さんも苦戦していた。
 二人から助言をもらいながら球を投げ上げてラケットに当てることを繰り返していくうち、段々と感覚を掴んできた私たちは、少しずつ台の向こう側に球を届けることができるようになり、二人でラリーをしてみようということになった。
「あっ! すみません…」
「あー! ごめんっ!」
 私の球はネット手前に落ちることが多く、その度に根岸さんが返球のために前につんのめる。崩れた体勢から返球された根岸さんのボールは、あらぬ方向へと飛んでいってしまう。明らかに打ちにくい球ばかり根岸さんに送ってしまっている。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「杉本さんはもう少し思い切って振ってみてもいいんじゃないでしょうか」
 星野くんから私に声がかけられた。緊張でラケットを握る手に力が入る。
「は、はいっ」
 そして、次のラリー。私はラケットを全く動かすことができず、球をそのまま見送ってしまった。ピンポン球が床に落ちて、カツンッという音が響いた。
「ごっ、ごめんなさい!」
 思わず頭を下げる。せっかく星野くんがアドバイスしてくれたのに逆のことをしてしまった。根岸さんにも迷惑をかけてしまっている。心苦しさと恥ずかしさで私はパニック状態だった。
「杉本さん」
 根岸さんの声がした。頭を上げると根岸さんがいつの間にかすぐ隣に来ていた。
「大丈夫だよ!大丈夫! 私、気にしてないし、星野くんも気にしてないよ」
 根岸さんは私の目を見て話してくれている。
「そうですよ。根岸さんも同じくらい下手なんですから、気に病む必要はないですよ」
「言い方がムカつく…けど、まぁそういうことだからさ!」
 根岸さんは一瞬星野くんの方を振り返ったあと、また私の目を見て優しく言った。
「深呼吸しようよ」
 ラケットを台に置き、できるだけたくさんの空気を吸い込む、そしてゆっくり吐き出す。隣で根岸さんも同じようにしている。もしかしたら根岸さんも緊張してたのかもしれない。そう思った。吸って吐いてを繰り返してくうちに乱れた呼吸がおさまってくる。視界が心なしか鮮明になったような気もした。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
「よかった!」
 それからはラリーが安定して続くようになった。私の打球は根岸さんのところにちゃんと届くようになり、根岸さんの打球は私のところにちゃんと届くようになってきた。まだまだミスは多かったけど、初めてにしてはよくできたほうなんじゃないかと思った。根岸さんも星野くんもケースケも、同じことを言っていた。
「いいかんじだよ!」
「その調子です」
「涼ちーん、がんばれー」
 根岸さんが打って、私が返す。私が打って、根岸さんが返す。そうやって時間が過ぎていった。
「今日は楽しかった! またやろうね」
 特訓を終えて星野くんと一緒に帰っていく根岸さんの背中を眺めながら、根岸さんは太陽みたいな人だと思った。星野くんが夜空に輝く星のような人だとしたら、根岸さんは大きくて明るくて暖かい太陽みたいな人だ。そう思っている自分の顔が少し熱くなっていることに気づいたのは、少し遅れてのことだった。

 それからは毎週末、根岸さんと卓球の特訓をした。特訓に付き合ってくれたのは星野くんやケースケ、あとは星野くんたちと友達の塚原くんや陽子さんもお手伝いをしてくれた。
 とりあえず球を打って返すことができるようになった私たちは、次にダブルスに挑戦してみることになった。卓球のダブルスは二人が交互に返球するルールらしい。ただ、初心者にとってそれは難しいということで、球技大会では順番にかかわらず二人の内のどちらかが返球すればいいということになっていた。なので、どういう球のときにどちらが返球するかという役割分担を考える必要があった。
 根岸さんは身体がよく動いた。私だったら打てないような場所の球も動いて返球できていた。そして、打球に勢いがあった。一方で私は俊敏に動くことはできず、球に勢いがなかった。ただ、前後左右への球の打ち分けはある程度できた。だから、私たちは作戦として「基本的に自分の立ち位置に来た球は打つ」「私は相手の打ちづらい場所への打球で体勢を崩させる」「浮いた球が返ってきたら根岸さんが動いてスマッシュを打つ」の3つの方針を立てた。
「いい感じだね!」 
 根岸さんは嬉しそうだった。そんな根岸さんを見ることができて私も嬉しかった。大会当日も、勝って根岸さんに喜んでもらいたいと思った。
「二人とも、けっこーいい感じだよなー」
 特訓からの帰り道、ケースケは私にそう言った。
「私もいい感じだと思う。このままの調子で、根岸さんのペアとして迷惑をかけないようにしないと」
「おー」
 ケースケは少し釈然としない様子だった。
「まーでも、あんまり思い詰め過ぎんなよな」
「思い詰めてなんかないわよ。少し不安ではあるけどね」
「…そうかー。まー楽しんでな」
 応援してるぜー、とケースケはやわらかく笑った。

 甲高い金属音がグラウンドに鳴り響き、白い球が勢いよく飛んでいく。応援の生徒たちから歓声が上がる。ボールが誰にも取られず地面に落ちた瞬間、私たちのクラスの逆転勝利が決まった。
 球技大会のソフトボール初戦を勝利で終えた私たちのクラスは、幸先の良いスタートを切れたことにこれ以上ないくらい盛り上がっていた。
「星野くんおつかれー!」
「根岸さん! ありがとうございます!」
 試合を終えたクラスメイトたちが続々と戻ってくる。
「涼ちん見てたかー、俺の活躍」
 体操服姿のケースケがヘラヘラ笑いながら私のところへやって来た。
「よかったわよ。おつかれ」
 競技のことはよく分からなかったけど、ケースケはがんばっていたと思う。
「そろそろ卓球だよなー」
「そ、そうね」
 次は私の番だった。口の中が渇く感じがした。
「俺たちはまだ試合があるけど、終わったら応援に行くぜー」
 ソフトボールと卓球は少し試合の時間帯が被っていた。他の人たちにとっては残念なことだと思うけど、個人的にはホッとした。大勢の人に見られるというのは私にはとてもプレッシャーだった。
「がんばってくれよなー、俺も涼ちんのためにがんばるからさー」
「ばっ、馬鹿じゃないの」
 あははーと笑うケースケを見ていたら、少し気が楽になった。ケースケはたぶん分かってやっている。私は心のなかでケースケに感謝した。
「杉本さん!」
 根岸さんが駆けてきた。星野くんも一緒だった。
「そろそろ行こっか!」
「はっ、はい」
「ソフトボールが終わったら応援に行きますね」
「あっ、は、はい…」
 試合中、星野くんを見ていたことが後ろめたく感じられて、私は星野くんの方をまともに見られなかった。

 卓球の試合会場である小ホールには人がたくさん集まっていた。いつもは学年集会で利用されているこの空間に、腰の高さほどのパーテーションが場所を区切るようにいくつも置かれていて、その分割されたエリアに卓球台が並んでいた。あちこちでピンポン球が跳ねる軽快な音が聞こえる。
「うわー、もう結構集まってるね」
「き、緊張します」
 ラケットを握る手はもう汗でべとついていた。
「出場者のみなさんは決められた台のところに集まってください」
 実行委員のアナウンスがかかった。
「行こっか」
「は、はい」
 対戦相手は3年E組の高木さんと栗山さんという人だった。
 まずはジャンケンをして最初のサーブ権を決める。私たちが勝ったので、サーブは私たちが先に打つことになった。
「それでは試合を始めてください」
 会場のあちこちから元気な声が上がる。
「よろしくおねがいします!」
「よろしくおねがいします」
 根岸さんがサーブを打った。相手がそれを返球する。こちらにボールが来たので、出来るだけネットの手前に落ちるように緩く打った。相手の体勢が崩れ、浮いた球がこちらに返ってくる。私は台の後ろに下がり、根岸さんが前に出る。根岸さんがラケットを大きく振りかぶった。カンッと大きな音がなり、ボールが相手二人の間を突き抜けた。
 私たちに点が入った。1-0。
「よっしゃ!」
 根岸さんがガッツポーズをした。私は大きく息を吐き出す。
 そこから調子づいた私たちは順調に得点を重ね、試合は11-4で終了した。私たちの勝ちだった。私が繋いで根岸さんが決めるという、事前に立てていた作戦が上手くいった。
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました」
 思い通りの動きができた根岸さんはとても楽しそうだった。
「さっきのよかったね!」
「は、はい、よかったと思います」
 私は無事に試合を終えられたことに安堵していた。
「あと2試合もがんばろーね!」
「は、はいっ」
 あと2試合。根岸さんの足手まといにならないようにしないといけない。
 2試合目の相手は3年A組の田村さんと大滝さんという人だった。たしか2人ともテニス部の人たちだった。
「それでは試合を始めてください」
「よろしくおねがいします!」
「よろしくおねがいします」
 今度の試合は流れが拮抗して、スコアは4-4にまでなった。緊張するけれどがんばれば勝てない試合ではないと、私が自分に言い聞かせていたその時。
「がんばれー!」
 大きな声援が聞こえた。周りを見渡した私はぎょっとした。
 私たちの台は大勢の生徒に囲まれていた。グラウンドで行われていたソフトボールの試合が終了し、そちらの方に行っていたクラスメイトたちが卓球の会場に応援として合流してきたのだった。その中には星野くんやケースケもいた。
 頭の中が真っ白になる。今まで経験したことのない数の声と視線を一気に浴びた私は、自分の身体の動かし方すら分からなくなってしまっていた。
 次は私がサーブを打つ番だった。ボールを手のひらに載せて投げ上げる。ラケットを振って当てる。飛んでいった球がネットに引っかかって止まる。心拍が跳ね上がった。落ち着こうと浅く息を吸って吐く。サーブは2回連続で失敗しなければ失点しないというルールになっていたので、もう一度サーブを打った。振ったラケットは投げ上げた球にすら当たらず空を切った。
 サーブミス。4-5。
「ごっ、ごめんなさい!」
 根岸さんに頭を下げる。
「大丈夫大丈夫! 気にせず次行こうよ!」
 それからの展開はひどいものだった。サーブはミスし、打球は空振り、足は動かない。何もかもが上手くいかなかった。
 そうして、試合が終了した。スコアは5-11。失点のほぼ全てが私のミスだった。
「うーん、けっこう厳しかったねー」
 根岸さんは負けた原因については何も言わなかった。ただ、言わないだけで分かっているはずだった。
 身体が震えていた。
 私のせいで負けた。負けてしまった。私が根岸さんのペアじゃなかったら勝てたかもしれないのに。全身に力が入らなかった。私の中の大事な糸がぷっつりと切れてしまったかのようだった。
「3試合目までちょっと時間あるみたい。台使って練習する?」
「え、ああ…えっと…」
 とても3試合目に臨める気にはなれなかった。
「杉本さん大丈夫? 元気なさそうに見えるけど」
 試合で迷惑をかけたばかりか、今も根岸さんに心配をかけてしまっている。
「あ、あの、ごめんなさい。私…」
 お腹の奥から刺すような痛みを感じた。それはあっという間に腹部全体に広がって、ズキズキと私を責め立てた。血の気が引き、冷や汗が噴き出る。
「大丈夫?」
 根岸さんが私の顔を覗き込んでくる。
「保健室行ったほうがいいよ! 一緒に行こう?」
「大丈夫です、一人で、行けます」
 これ以上、根岸さんの手を煩わせてはいけない。
 同行しようとしてくれる根岸さんを押し止めて、私は身体をよろよろと引きずりながらその場から逃げ出した。後ろは振り返らなかった。

 保健室はとても静かだった。ベッドに横たわり、空調の出す低い唸り声のような音を聞きながら見慣れた白い天井を眺めていると、さっきまでの喧騒がまるで幻だったかのように感じられる。
 腹痛はもう治まっていた。痛みが過ぎ去ったあとの余韻のような刺激の波がゆっくりと静まっていくのを感じながら、私はさっきまでのことを延々と考え続けていた。
 なんてことをしてしまったんだろう。私は根岸さんに迷惑をかけてばかりいる。会場に戻ったところで私はまた根岸さんの足を引っ張り、みっともない姿を晒すだろう。私はあそこに戻らないほうがいいと思った。
 やはりあのとき根岸さんのペアに志願するのはやめた方が良かったのかもしれない。後悔の念があふれ出てくる。
 いつまでそうしていたかわからない。ふと音がしていることに気がついた。それは廊下を歩く足音だった。音は段々と近づいてきて、まもなく保健室のドアが開いた。ガラガラという音が鳴る。私はぞっとした。
 訪問者は私のベッドの前に立った。私の様子を見に来た人のようだった。だとしたら、やってきたのはケースケだ。
「ケースケ?」
 少し身を起こし、ベッドを囲うカーテンの向こう側にいる人影に声をかける。
 ケースケには会いたくなかった。今の私では、ケースケにひどいことを言ってしまいそうな気がした。ケースケを傷つけないためにも、私がさらに私にがっかりしないためにも、ケースケには会いたくなかった。
「悪いんだけど、今は一人にしてほしい」
「杉本さん」
 ケースケの声ではなかった。
「ほっ、星野くん?」
 私は跳ね起きた。
「様子を見に来ました」
 カーテンが開けられ、星野くんが現れた。息が止まりそうだった。
「座ってもいいですか」
「は、はい」
 星野くんがベッドの脇に椅子を置いて座った。
「根岸さんが心配していました。それに牧村も」
 星野くんは私を見つめながらそう言った。
「ご、ごめんなさい」
 それしか言う言葉がなかった。
「私、みなさんに迷惑かけてますよね」
「迷惑というよりは、心配していました。もちろん俺もです」
「ご、ごめんなさい」
 星野くんの口調は淡々としていた。怒っても呆れてもいないようだった。普段通りの変わらない星野くんの話し方だった。
「あの、残りの試合の方は…」
「まだ始まっていません。でも、そろそろ始まると思います」
 胸の奥がきつく締め付けられるような感じがした。
「無理して戻る必要はないですよ。別の人が根岸さんのペアになったりすることもできるらしいですから」
「そ、そうですか」
 そっちの方がいいと思った。だから「体調が悪くて会場には戻れない」と星野くんに言おうとした。
「ほ、本当はもう体調は大丈夫なんです」
 逆のことを言ってしまった。正直者の星野くんの前で、私はどうしても嘘をつく気になれなかった。
「ただ、私、根岸さんや星野くん、ケースケや他の人たちに迷惑ばかりかけていて、申し訳ない気持ちでいっぱいで。それで、私なんかが根岸さんのペアでいいのかなって、思ってて」
 こんなことを星野くんに言ってもどうにもならないのに、困らせるだけなのに、口が勝手に動いていた。そんな私のたどたどしい話を星野くんは黙って聞いていた。
「だから、戻りたい、とは思ってはいるんですけど、戻っちゃいけないような気もしていて…」
 星野くんとの間に沈黙が流れる。どこかから微かに生徒たちの歓声が聞こえてきた。その歓声から遠く離れたこの場所で、私は星野くんと二人きりだった。
 ……。
「俺は杉本さんが羨ましいです」
 星野くんが口を開いた。落ち着いていてハッキリとした声だった。
「俺もできることなら根岸さんとペアを組みたかった。だから羨ましいです」
「ご、ごめんなさい」
「俺は杉本さんに謝ってもらうために言ったんじゃありません」
「ご…、はい」
 今の私に唯一許された言葉が出せなくなり、私は目を伏せた。星野くんの顔を見ることができなかった。
「俺もペアになりたかった。でも」
 星野くんが座りなおす音が聞こえる。
「実際に根岸さんとペアになってるのは杉本さんです。今、根岸さんの隣に立つ資格があるのは、俺じゃありません。杉本さんです」
 声が力強くなっていくのがわかった。星野くんは何かを私に伝えようとしていた。
「だから杉本さんにはその資格を享受する権利があると思っていますし、そうしてほしいと俺は思っています」
「そ、それは」
 それはいったい。
「どういうことですか?」
「杉本さん」
 少し肩が跳ねた。
「は、はいっ」
 思わず星野くんの方を向く。私は言葉を失った。
「楽しんでください」
 星野くんは笑っていた。とても穏やかな顔で微笑んでいた。
「勝っても負けてもいいじゃないですか。楽しんでください。俺たちに申し訳ないと思っているならなおさらですよ」
 初めて見る星野くんの表情だった。胸が高鳴った。そしてその高鳴りが、私を縛っていた何かから私を解放してくれそうな予感がした。
「杉本さんが根岸さんのダブルスのペアに決まったあと、根岸さんがなんて言ってたか知ってますか」
 …なんて。
「なんて言ってたんですか?」
「杉本さんが私をペアに選んでくれて嬉しい、って言ったんですよ」
 何かが解ける感覚がした。鼻の奥がツンとした。
「恥ずかしいから杉本さんには言わないでほしいって言われてたんですけど、本当のことだから、伝えた方がいいと思いました」
「……」
「二人ならきっと大丈夫ですよ。根岸さんは奔放な性格なので苦労するかもしれませんが、いい人ですから。きっと大丈夫です」
 きっと、大丈夫。
 星野くんは嘘をつかない。だからそれは、本当のことだった。
「…ありがとうございます」
 私はベッドから立ち上がり、星野くんの方へ身体を向けた。
「もう大丈夫そうですか?」
「はい、大丈夫です」
「それはよかったです」
「星野くんのおかげです。ありがとうございます」
「俺が何かしましたか?」
 頭を下げた私に星野くんは意外そうに言った。星野くん自身には何か特別なことをしたという自覚はなかったらしい。残念に思う気持ちはなかった。星野くんがそんな人だから私は星野くんが好きになったんだなと、どこか他人事のように感じていた。
「いえ、いつもの星野くんでしたよ」
 困惑した様子の星野くんを見ていると、自然に笑みがこぼれていた。星野くんにはカッコいいところだけじゃなくて、かわいいところもあるんだなと思った。
「じゃあ、私戻ります。根岸さんが待っていると思うので」
「はい、わかりました」
 何回も言うようですが、と星野くんは続けた。
「こんな機会またとないかもしれないんですから、楽しんでください。明日、世界が滅ぶ可能性もゼロではないんですよ」
 星野くんの真剣な表情がおかしかった。
「そうですね。ありがとうございます」
 星野くんに背を向け、保健室を出て、私は歩き始めた。
 階段をのぼるたび、角を曲がるたび、私の気持ちが段々と確かなものになっていくのを感じる。
 思い切りやろう。思い切りやれなくても、思い切りやれるようにがんばろう。そうすれば、たぶん楽しい。楽しみたい。そして、根岸さんにも楽しいと思ってほしい。私と根岸さんの楽しい思い出にしたい。そうすることができたら、どんなに素晴らしいだろう。
 二人ならきっと大丈夫。星野くんの言葉を何度も何度も繰り返す。
 会場のざわめきが聞こえる。さっきまで私を追い詰めていたものが、今は私を奮い立たせてくれている。望むところだった。

「あっ、杉本さん!」
 私の姿を見つけた根岸さんはすぐに駆け寄ってきた。
「調子は大丈夫?」
「はい、もう大丈夫です」
 力強く頷いてみせる。根岸さんが大きく息を吐き出した。
「それはよかった!」
「待ってていただいて、ありがとうございます」
「そんなのぜんぜん! 試合はどうしよう? 杉本さんが厳しそうなら違うペアでも出来るって実行委員の子が言ってたけど」
「試合もできます。やらせてほしいです」
 表情が一気に華やいだ。
「根岸さん。がんばりましょうね」
「もちろん!」
 おー!と根岸さんは拳を突き上げた。

「ケースケ」
 靴紐を結びながら、話しかける。
「なんだー?」
「あんた、星野くんに私と話してくるようにお願いしたでしょ」
「おー、そうだぜ」
 もし私に訊かれなかったら自分からは絶対言わなかったくせに、まるで何でもないことかのようにケースケは笑っていた。
「俺じゃ難しいかもなーって思ったからさ」
「たしかに、ケースケじゃ難しかったかもね」
 ケースケの言う通り、あの場に現れたのがケースケだったら私は立ち直れていなかったかもしれない。私の元に来たのが星野くんだったからこそ、私はここに戻ってこれたのかもしれない。
「でも」
 だからこそ。
 靴紐をぎゅっと結んだ。
「私がここに来られたのはケースケのおかげだと思う」
「えっ…」
「ケースケだから出来たことだと思う」
 ケースケの方を見た。私を立ち直らせてくれた幼馴染は目を丸くして固まっていた。
「助かったわ。ありがとう」
「あ、ああ、ははっ。そっかー…」
 照れるなーと、居心地が悪そうに頭をかくケースケは、少し顔が赤いように見えた。
「あんた、この前私とデートしたいって言ってたわよね」
「へ?」
「ソフトボールで俺が活躍したらデートしてくれー、って言ってたじゃない」
「お、おう。言ってたなー」
「いいわよ」
「え…」
「デート…って言っていいか分からないけど、二人でどこか出かけようよ。あんたと遊びに行くなんて小学校の時以来よね」
 ケースケはしばらく固まっていた。何が起こっているのか理解に時間がかかっている様子だった。そんなケースケに私は笑いかけてみせた。それに呼応するかのようにケースケの表情が緩んだ。
「おう! じゃあ、どこか出かけるかー」
 楽しみだなー、と笑うケースケはいつものヘラヘラとしたケースケに戻っていた。

「杉本さん。さっきはごめん!」
 試合が始まる直前、根岸さんが私に頭を下げた。
「なんか私ばっかりが突っ走っちゃってて、杉本さんに迷惑かけてたのかなって今になって反省したんだ」
「大丈夫ですよ」
 少ししおらしい様子の根岸さんが、さっきまでの自分と重なって見えた。だから私は自分自身に言い聞かせるように言った。
「お互いに迷惑をかけあって、お互いにフォローしあうっていうのがペアを組むってことなんだと思います」
「ありがとう!」
 礼を言ったあと、根岸さんがフフッと笑った。
「なんか、星野くんみたいなこと言うね」
「あっ、えっ」
 顔が赤くなったのが自分でも分かった。

 3試合目の対戦相手は2年A組の北条さんと佐々木さんという人だった。
「それでは試合を始めてください」
「よろしくおねがいします!」
「よろしくおねがいします!」
 試合が始まった。
 厳しい展開が続いた。根岸さんの方には長くて低めのボールばかりが飛んできてスマッシュが打てなかったし、私の方には勢いのあるボールばかりくるので返球するのに精一杯だった。あっという間に点差をつけられスコアは0-4になった。
 さっきの試合と同じく一方的に負けているはずなのに、さっきまでとは気持ちが全く違っていた。点を取られて悔しいと初めて思った。そしてその悔しさが私を動かしていた。自分の中にこんな感情があることに驚いた。
 時間が経っても得点は相変わらず0だった。しかし、徐々に相手の打球にも慣れてきて、私も根岸さんも球を返せる確率が高くなってきた。これはどこかで状況が変わるかもしれない。そう思うとワクワクしてきた。
 タオルで汗を拭きながら、ふと脇を見ると応援の生徒の中に星野くんがいた。そういえばさっきの私は星野くんと普通に話せてた気がするなと思った。心拍数が上がった。
 転機が来たのは試合も終盤に差し掛かった頃だった。スコアは0-8。根岸さんが打った球への対応が遅れて、相手の返球が高く浮き上がった。私の元に飛んできたその球は勢いがなく浮ついていて、明らかなチャンスボールだった。スマッシュを打つのは私の役目ではなかったけど、根岸さんと立ち位置を交代する時間はなさそうだった。
 私が、決めないといけない。
 浮いた球を見据え、思い切って腕をスイングした。かすかな手応えを感じ、そのまま振り抜いた。バチンッという音と共に白球が飛び、相手ペアの間を貫いた。
 次の瞬間、歓声が聞こえた。得点板を見ると私たちの方に得点が入っている。1-8。
 拍手が巻き起こった。そしてその割れるような音の中心に私と根岸さんがいた。
 心が震えていた。手が震え、脚が震えていた。
「やったー!」
 横を見ると根岸さんが跳ねていた。私の肩に手を載せて飛び跳ねていた。まるで全てが夢のように感じられる中で、私に触れる根岸さんの手の感触だけが、これが夢ではないということを私に教えてくれていた。
「すごいよ杉本さん!」
 弾けるような笑顔だった。綺麗だと思った。
 流れに乗った私たちはそこから2連続で得点をしてスコアは3-8になった。
 続くラリー、相手の打球が私の方へ勢いよく飛んできた。ラケットを振るも当たらず、ボールは私の後ろへ通り抜けていく。
 これで失点してしまう。そう諦めたとき背後から音がした。それはボールが床に落ちる音ではなかった。後ろを振り返るとボールが真上に飛び上がっていた。そしてそのまま落下して床に落ちた。
「あー無理だったかー!」
 根岸さんは肩で息をしながらとても悔しそうな表情をした。根岸さんが私の空振りを見て、代わりにボールを打とうと私の背後まで跳んできていたのだった。
「あ、ありがとうございます!」
「うまくいかなかったけどね」
 えへへと根岸さんは恥ずかしそうに笑った。
 根岸さんはとても楽しそうに卓球をしている。こんなに楽しそうなのは、私がペアだからだろうか。それとも、私がペアじゃなくてもこんな顔をするんだろうか。そんなことはどうでもよかった。今、私が根岸さんの隣にいて根岸さんが生き生きとしている。そのことだけで私は満足だった。
 今の根岸さんはいつにも増して輝いていた。カッコよかった。眩しかった。根岸さんのこの姿を絵に描きたいと言ったら、根岸さんは許してくれるだろうか。根岸さんとペアになること、ペアであることに怯えていたさっきまでの自分からは考えられないくらい、今の自分は大胆で欲張りになっていた。
 試合の中で私はいろんなことを思い返した。根岸さんのペアに志願したこと、星野くんやケースケたちと一緒に特訓したこと、試合で緊張のあまりミスを連発してお腹が痛くなったこと、保健室で星野くんに元気づけてもらったこと、こうして根岸さんとペアで試合をしていること。いろんなことを思い返し、それらたくさんのことがみんないい思い出になればいいなと思った。今の私は今のことだけで精一杯だったけど、そんな今の私が感じた辛いこと苦しいこと、楽しいこと嬉しいこと、大事なこと何でもないこと、その全部がこれからの人生を歩いていくための糧になってくれればいいなと思った。いつか大人になって、みんなでお酒でも飲みながら今日のことを懐かしむ日が来るんだろうかと想像し、そうなってくれたらとても嬉しいと思った。
 そうして、私たちの試合が終わった。
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
 挨拶をして、大きく深呼吸をした。
「うーん! 強かったね!」
 結局、私たちは負けてしまった。スコアは5-11。最後は相手のスマッシュが華麗に決まった。負けたにもかかわらず、根岸さんの表情はどこか晴れやかだった。
「負けてしまって悔しいです」
「悔しいねー」
「でも」
 言うべきことを言うために私は小さく息を吸った。
「でも楽しかったです! 」
 とても楽しかった。負けたにもかかわらず、私の心はとても晴れやかだった。
「私、根岸さんとペアを組めて良かったです」
「うん、私だってそう思ってるよ!」
 目の奥から湧き上がってくるものがあった。
 根岸さんが手のひらを私に掲げてきた。私は自分の手のひらをそこへ勢いよく打ちつけた。ぱちん、という小さな音が鳴った。

 球技大会から数日が経った。
 馴染みのボウリング場の隅にある卓球コーナー。そこに私と根岸さんはいた。
「あ、あの星野くんたちは…」
「向こうでボウリングしてるよ」
 この場にいるのは私と根岸さんの二人だけだった。私たちは卓球のラリーをしながら会話をしていた。それはこの前まではできないことだった。
 この前はできなかったことが今はできるようになっている。一ヶ月前までは全く馴染みのない場所だったこの卓球台が、私と根岸さんたちの思い出の場所になっている。その事実が私の心のなかで大きな光になって私を内から照らしてくれているような感じがした。
「私ね」
 根岸さんが打ちながら話す。
「杉本さんが私をペアに選んでくれたとき、嬉しかったんだ」
 根岸さんの球が私のもとに届く。
「私も」
 私が打ちながら話す。
「根岸さんがそう思ってくれて、嬉しいです」
 私の球が根岸さんのもとに届く。
「球技大会さ」
「はい」
「楽しかったよね」
「楽しかったです」
「うん」
 根岸さんが打って、私が返す。私が打って、根岸さんが返す。
「こうやって楽しめたんだから私たちは」
 根岸さんが打つ。
「無敵のペアだよね」
「…向かうところ敵なしですよね」
 私が返す。自分で言ったことなのに何だかおかしくて、私は笑ってしまった。根岸さんも笑っていた。
「またいつか私と」
 私が打つ。
「ペアを組んでくれますか?」
「もちろん!」
 根岸さんが返す。
 この二人きりの場所にいて、繊細で微かで、でも確かなものを私たちはやり取りしていた。
「このあとさ」
「はい」
「ボウリングもやろうよ」
「やりましょう」
 遠くの方で豪快な音が聞こえた。ボウリングのピンが球に当たって倒れる音だった。星野くんやケースケの声も聞こえてくる。みんなでボウリングをするのも悪くない。ボウリングをする根岸さんも見てみたいと思った。
 でも、今はもう少しこのままがいいと思った。
 白くて軽くて薄い球が私たちの間を往復する。かん、こん、かん、こんという音が心地よかった。

 

name
email
url
comment