正しさを別の正しさでぶん殴ってなんとかしようとしても、解決にはなかなかたどり着けないね

「正しさ」の言葉の後ろに隠れてる心の痛みと悲しみを、お互いが感じること。認めること。
そこから対話すること。

時間とか心の余裕とか関係性とか、いろ条件が難しいけどね。
できるときはそうしたいな。

「私はつらいんです」って言った時に
「私はもっとつらいんです」って言われた時の絶望も、言っちゃった時の絶望もわかるんだけどね。

交互に話を聞きあうにしても、
「そっか、大変だったね。どんなことがあったの?」って一旦受け取り体制になる役割を、自分がやるか、相手にしてもらいたいって
永遠に思い続けるか。

先に話を聞く役割を、自分がやりすぎて苦しくなるのは良くない。
でも相手にその役割を永遠にやってもらいたいと思うのも、相手がそれを喜びだと思ってないならいつかバランスがおかしくなる。

人付き合いって、自分の正当性を認めてもらうことを主目的にすると、

結局相手が物理的に目の前に立っていても「不在」になる。

自分の正しさでだれかをぶん殴りたいと思ったとき、その相手の「正しさ」がどこから来て、同時に自分の「正しさ」がどこから来てるのか、立ち止まって考えてみるのもいいよね。

「私の方が正しいよね!?」と誰かに確認したい時は、特にね。

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