F太コメント
ハッサクさんはマンガを描かれるとのことですが、この文章もとてもすばらしく、はめこまれている鉛筆の写真にも歴史を感じ、時系列に並ぶ「鉛筆と創作と家族とハッサクさんの物語」にぐいぐいとひきこまれていきました。
この鉛筆があったおかげで、僕はハッサクさんの文章に出会うことができました。なんとなく、この鉛筆が僕をハッサクさんと出会わせてくれたような感じがしました。
だから僕はいま、ハッサクさんの鉛筆にこの文章を書かされているような気がしています。
僕自身が幼い頃にただただ楽しんでいたことはテレビゲームでした。でもそれは誰かが僕らを「楽しませる」ためにつくってくれたおもちゃで、僕はただそれを消費しているだけだったように思います。
僕自身がなにかを創り出すことを楽しんでいるいちばん古い記憶を探ってみました。中学生の頃、インターネット上の掲示板で見知らぬ人と文章で交流することに夢中になりました。その後、自分でもホームページをつくりました。そのモチベーションの源泉は「アクセス数がほしい」でした。そのためにパソコンの本を買って読み込んで「便利なショートカットキーまとめ」みたいな記事をせっせとつくっていました。当時からすでに僕は承認欲求のとりこで、「誰かにとって有用な情報を提供することでアクセス数=他者からの評価を得る」ことを目的に文章を書いてきたような気がします。
だからこそなのかもしれませんが、純粋に自分のなかから溢れてくるものをかき留めるように創作し続ける人は、僕にとってずっと憧れの対象でした。
ハッサクさんの文章からは、当時のハッサクさんが夢中でマンガを描いていたことが伝わってきます。身体と腕で隠しながらコソコソとなにかを描くあの感じを、ありありと思い出させられました。
ハッサクさんの、時系列のひとまとまりごとに区切られた文章を読み進めながら、なんとなく僕は自分にとってのTwitterを思い起こしていました。僕の思考はいつも断片的で、物語性もなければテーマもありません。でもこのバラバラな感じがむしろ、Twitterにはちょうどいいサイズ感でした。
でもいまの僕の思考はどうやらTwitterでは入れ物が小さすぎるみたいで、noteに書くのがちょうどいいみたいです。
僕はなんとなく、ハッサクさんの文章のまとまりかたやテンポから、畏れながら似たような「思考の断片さ」に共感を憶えたのです。
鉛筆から思い起こされてくる、断片的ながらもとてもクリアで、感情が付着した思い出の数々が集まってきてストーリを創り上げる感じ。ここにハッサクさんの創作の魅力があるように思いました。
多分、ハッサクさん自身も全体像がみえていないような、それでもきっとハッサクさんしか描けない世界のほんのカケラでいいから、少しずつみせてほしいと読者の僕は思いました。じつはハッサクさんにとっては読者も、鉛筆のようにハッサクさんをどこかに連れていくための存在なのかもしれません。
このお話が「2つ上のお姉さんに向けて」書かれたものだというのも素敵です。姉に、私が何をかいていたのかをついに打ち明かす。そんなシーンを目撃しているのだろうか、と感じて少しドキドキしながら読みました。
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